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この記事へのコメント

凡人
2006年12月23日 09:18
就職おめでとうございました。
「生活」は大事ですよね。
takataka
2006年12月23日 09:50
凡人さん、いつもありがとうございます。
確かに「生活」は大事です。でも本当は「嫌い」なんです。働くことが「日常」になっていくことに耐えられないのです。それでも人は働かなければならない。種田山頭火は、定住することが結局できずに、旅で死にました。定住…、僕も同じところにとどまることが出来ない人間なのかもしれません。生活感が希薄なのでしょうね。
凡人
2006年12月23日 10:36
「生活感が希薄なの」では無く、自分に「正直」なだけでなのではないでしょうか?
私も、もう少し、自分に「正直」にならなければと思いました。
ところで、種田山頭火の話は知りませんでした。
有難うございました。
takataka
2006年12月23日 14:00
残念ながら、自分に正直なだけでは生きていけないのが現実の世界です。かなしいことに、要領よく生活をしていかなければなりません。
凡人
2006年12月23日 19:26
矛盾しなければ、生きて行けないという事が、最大の矛盾ではないでしょうか?
takataka
2006年12月23日 23:32
その通りですね。でも、他の人は、僕のように思っていて、またそのことを矛盾だと感じているのでしょうか。それとも何も感じずに、これを当たり前の生活だと思っているのでしょうか。僕のような存在は「例外」なのでしょうか。それとも、誰もが少なからずこのような気持ちを持っているのでしょうか。そのことが、僕にはわかりません。
凡人
2006年12月24日 10:49
自分の事を「例外」と捉えない方が良いと思います。
自分と「他人」を「ジャンル分けし、仕分け」する事になりますから。
私は、この論理や、日々の経験から考察からすると、「他人」も、程度の強弱の違いはあれ、必ず「このような気持ち」を持っているものと確信しています。
だから私は、未来に対して、本質的な意味で、悲観する必要は無いと思っているのです。
takataka
2006年12月24日 23:12
コメントありがとうございます。こうして対話できることはエキサイティングなことだと思います。
他人が必ず「このような気持ち」を持っているかどうかは、現象学のいわゆる「間主観性」に通ずる難しい問題です。僕は、この間主観性にどうしても理屈以前に違和感を覚えてしまうのです。しかし現実に社会というものが存在している以上、なんらかの間主観性というものがあるのだろうということも承知しています。いわば、存在していることは論理的に理解できるけれども、身体的に嫌悪感をおぼえる、といった感覚でしょうか。このジレンマに僕自身、引き裂かれそうになる時もあります。それを超人となって乗り越えようとして失敗したのがニーチェだと思います。
未来に対しては、僕は正直なところ、何も持っていません。未来は目的です。前にも言いましたが、目的のために行動することのいやらしさが鼻についていまうので、僕には未来を観念することがどうしてもできないのです。だから未来に対して、悲観も楽観もしていません。どちらにしても、死ぬときは死ぬのですから。
凡人
2006年12月25日 23:04
takataka様は、「われわれ人間は、・・はたまたお釈迦様の掌の上の存在」というように表現されていましたが、私は、人間はまさに「お釈迦様の掌の上の存在」だと思うのです。(私は仏教徒ではないですけれども。)
だからこそ、他人も必ずや「このような気持ち」を多かれ少なかれ持っているのだと確信したいのです。
人間の悪いところを見る事は容易いですが、善いところを正しく看るのは、容易ではないと思います。
社会を超越する必要は無いと思います。社会にしっかり内在し、根を張って、良く生れば良いのではないでしょうか?
一度きりの人生なのですから。
私は、最近そう思うようになったのです。
takataka
2006年12月26日 13:03
凡人さん、ありがとうございます。
まさに、その通りだと思います。自分もそのように生きなければならないと思います。といいますか、言い聞かせるようにしています。それでも、時間の裂け目から、「死」や「真実」や「愛」や「美」やなどが吹き出てくる時があるのです。それを無理に抑えるか、そいつとうまく付き合うか、それとも全く無視するか、どうしたらよいかその術を僕はまだ知りません…
凡人
2006年12月26日 22:41
takataka様、真摯なご回答有難うございます。
私も生きる術ついては、takataka様同様、何も分っていません。
ただ私は、最近、この宇宙について考えを巡らせているうちに、私たちは、所詮「お釈迦様の掌の上の存在」のようなものであり、「お釈迦様」によって運命を完全に決定されているようなものだ、という結論に達したのです。
そうだとすれば、じたばたせずに、「お釈迦様」によって決められた運命を素直に受け入れ、その決定どおりに、生きればよいと思ったわけです。
そうこうしている内に、takataka様の「時間とは有理数的あるいは映画のフィルム的なもの」(2006/08/23)というくだりが私の目に入り、私の「結論」の前提を成す事項について、同様に考えていらっしゃったようなので、嬉しくなってコメントをさせていただいたのです。
takataka
2006年12月26日 22:54
凡人様、ありがとうございます。
僕は、神(お釈迦様でもよいですが)に対して嫉妬していたのかもしれません。そして、僕にとっては偶然であっても、神にとっては必然だったのかもしれません。しかし、それは証明することが不可能なこと。僕が、この世で様々なことに悩み、苦しんでいたとしても、それはすべて神の思し召すままなのでしょう。僕も、直感的に神は存在すると思っています。ただ、それを伝えようとするために、神のことばを欲してしまったのかもしれません。神という存在をを、人間のことばでは、すべてを伝えることができるはずがないのです。
凡人
2006年12月27日 00:19
takataka様、ありがとうございます。
「神という存在を、人間のことばでは、すべてを伝えることができるはずがないのです。」というのは、私も同感です。
私も、そういう気持ちが大事だと、自分の胸に刻み込みたいと思います。

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